聖書

歴史的な話

東回りのキリスト教について

聖書

最初は、お大師様の話から説明します。

空海はお大師様と呼ばれている。日本で最初に私立の学校を作ったのも空海、満の池という堤は空海が作った。1200年前に作った池が今も現役で使用されている。うどんを作ったのも空海。日本で最初に水洗トイレを作ったのも空海。私立の庶民のための学校を作った「綜藝種智院」と呼ばれた。

彼の最も大きな業績は日本に真言密教という宗教をもたらしたということです。真言密教は普通の仏教と違います。普通の仏教へ顕教という現れた教え、密教は秘技が多い不思議な仏教。

空海は、聖書影響を2段階で受けている。日本の仏教そのものも聖書の影響を強力に受けて伝わってきた。もともとの仏教の形を日本人は知りません。日本人が信じている大乗仏教は聖書の影響を受けたものです。

空海はさらに第二段階の影響を受けていたのです。空海は、遣唐使として中国の長安という都に行きます。唐の長安で爆発的に広がっていた宗教はキリスト教であった。中国ではこのキリスト教のことを景教と呼んだ。キリスト教の教派の一つにネストリウス派というものがありました。このネストリウス派のキリスト教が東へ東へと伝わってまいりまして、唐の時代の初期に中国の国内に広がっていきました。

「川口一彦氏の景教」、「久保有政氏の仏教の成立とユダヤキリスト教」、「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史シニアジョセフ,ケン,ジュニアジョセフ,ケン他」などの資料がある。空海は二段階でキリスト教の影響を受けている。

第一段階
日本人は、日本は仏教国だと思っています。また、自分のことを仏教徒だと思っておられる方は多いです。しかし、仏典を読んだ方はあまりいません。日本では、刑事ドラマで死んだ人を仏さんになったと言います。元々仏というのは、死んだ人のことを言ったわけではありません。これは、直接的な言い方をすれば、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めたのでしょうか。真理に目覚めた人。あるいは悟りを開いた人。ですから、仏という言葉は、悟りを開いた人間に対して使う言葉であった。

紀元前6世紀に釈迦という人が真理に目覚めました。そこで、釈迦は仏陀と呼ばれるようになったのです。それで、最初は、悟りを開いた釈迦のことを仏と呼ぶようになっていた。では、釈迦が開いた悟りとは何でしょうか。彼は、人生は苦であると言いました。彼は、その苦を四苦八苦という言葉で表現しました。最初の4つの苦は、生まれてくる苦しみ、老いていく苦しみ、病んでいく苦しみ、死んでいく苦しみを指します。しかし、生まれてくる苦しみは何を意味するのでしょう。それは、人は生まれてきたから、苦しみ、生まれてきたから、病気になり、生まれてきたから死ぬ。死んだらどうなるのか。釈迦が問題にしていたのは、死んだらまた生まれ変わる。そしたら、苦しみのやり直しをずっとしていくことが悩みだった。永遠に輪廻を転生していくことは何と疲れ果てることだろうと考えました。お釈迦様は、もう2度と生まれ変わりたくないと考えました。2度と生まれ変わらないようにするためにはどうしたらいいんだろうかと考えました。2度と苦しまなくするにはどうしたら良いのか考えた。その解決方法がまさに天才的である。彼は、苦しんでいる自分がいるから苦しむと考えた。苦しんでいる自分を消したら苦しみを感じなくなってしまうと考えた。問題は、自分を完全に消せるのかということです。釈迦はできると考えました。完全に自分を消した状態のことを涅槃と呼びました。涅槃というのは、聖書がいう天国みたいな場所を指すのではありません。涅槃は自分を完全に打ち消しさった心の状態を言います。どうしたらそれを消し去ることができるだろうか。プロセスがあります。この世に存在しているものは全てうつろうものであること。それゆえにそれは存在していないのと同じなのだということを悟ることによって自分を消すことができるというのです。一切は空である。今あるものも全てなくなってしまう。チリになってしまう。ということは元々ないのと同じことである。全ては実態がない。あると思うがそれはないのだという。仏教の元々の教えは、全てがないというところから出発するので、無神論です。神なんかいないのです。私という存在もあるように見えて実はないのだと教えます。そして、霊も魂もない。無神論、無霊魂の哲学。これが初期の仏教です。全てはないということがわかれば、苦しみもないし、苦しんでいる私の存在もないのであるという哲学です。しかし、問題があります。言葉では、苦しむ自分がないのだったら苦しみを感じなくて済むわけですが、現実はそういうわけに行くだろうか。理論では理解できます。しかし、それを実践することができるでしょうか。それができる方は、お釈迦様のように極めて例外的な人しかいないのではないかと思われます。このような涅槃の哲学に立って物事を理解できるのは、本当に優れた方々しか無理だと思われます。

一世紀になるとこの原始仏教が大変貌を遂げます。一世紀にインドにキリスト教が入りました。これが、大問題でした。ヨーロッパと東アジアをつなぐ交易ルートをシルクロードと言います。このシルクロードは紀元前二世紀に開通しました。この交易ルートはだんだん増えていきまして、最終的には7ルートに増えます。インドというのは、アジアとヨーロッパをつなぐ丁度中心にありました。ヨーロッパのコスモポリタンな文明がどんどん流入してきます。このインドに物資を運んでくる人たちの中にクリスチャンがいました。

一世紀にトマスとバルトロマイがインドに宣教に行きます。バルトロマイはヘブライ語で書かれた聖書をインドまで運んでいます。イエスキリストが復活して24年後紀元55年にインド南西部のマナバル海岸というところに行って、7つの教会を建て上げます。ケララ州にトマス協会というのがあります。トマスのお墓があります。トマスはインドでつるぎに刺されて殉教したと言われています。トマスは、西海岸だけでなく、東海岸にもいきまして、その地方の王や民衆がたくさん信じます。奇跡の伴う伝道でした。短期間にインド南西部および南東部に広がっていきます。

二世紀に入りますとアレキサンドルクレメンスという人が西暦185年にパンテウスという宣教師がインドに行きます。インドに着つくと既にたくさんのクリスチャンがそこにいたという報告書を母国に送った。バルトロマイが持って行ったヘブライ語のマタイの福音書がまだそこに置いてあったと書き留めています。インドは、第二次世界大戦後独立します。ラジュンドラブラサト大統領が、演説でこういった。ヨーロッパの国々がまだキリスト教国家になっていない時代に使徒トマスがインドにやってきて多くの人々にキリストを宣べ伝え多くの人がキリストに従って行った。ヨーロッパよりも早くて深いということは何という光栄なことでしょうと演説しています。私たちは、キリスト教と言ったら欧米の宗教と思うのですが、そうではありません。欧米よりもだいぶん早くアジアにキリスト教はきたのです。多くの人がイエスキリストを信じました。これで、衝撃を受けたのがインドの仏教です。釈迦が出たのが紀元前6世紀です。

キリスト教がインドに来たときに仏教は低迷期にあった。なぜ、仏教は低迷したのか?お釈迦様が語った哲学は一般庶民にはハードルが高すぎたのです。お釈迦様の教えを実践できる人は、出家できる人だけです。厳しい修行に耐えることができる人。頭脳明晰で、瞑想する力があって観念の世界で生きることができるという人。こういう人だけが釈迦の弟子になれた。しかし、一般人にとっては手の届かない教えになってしまった。何かに縋るのではなくて、自分に縋りなさい、自分の悟りが全て、というのは、日々の苦しみの中にあっって悩んでいる人にとっては、慰めになりません。

その時にトマスたちが伝えたのは、重荷を負って疲れている人は、私のところへきなさい。私があなた方を休ませてあげるという教えでした。トマスが伝えたのは、永遠の神、永遠の創造主、この宇宙の真理そのものである方。万物の第一原因者。私たちの救い主であるイエスキリストのことを宣べ伝えました。人々は、それに飛びついていった。このままでは仏教は存続の危機にさらされます。そこで、全部キリスト教に持っていかれると危機感を抱いた仏教は、紀元後に大変貌を遂げるのです。

AD二世紀に大乗仏教というのが誕生します。この大乗仏教が日本に伝わった仏教です。原子仏教とは根本的に内容の違う仏教に変わってしまいました。どのように変わったかと言いますと、無神論であった仏教が一種の有神論に転換します。釈迦が始めた仏教は、無霊魂、無神論。全てが無でした。

しかし、大乗仏教は、神という言葉は使いませんが、超越的存在による救済の内容に変わってしまいました。そこに、無神論やむ霊魂ではなくて、人々を救ってくれる偉大な仏が登場します。大毘盧遮那仏(ダイビルシャナブツ)と言います。真言宗では、このダイビルシャナブツのことを大日如来と言います。真言宗以外の仏教は、大毘盧遮那仏といいます。大日如来というのは奈良の大仏さんのことです。大日如来というのは、目に見えない存在。宇宙の中心にあって永遠の存在で真理そのものであるもの。これを大日と言います。これは、元々太陽神です。

古代の人々にとって宇宙の中心は太陽でした。これは、目に見えないものですが、目に見える形にかたどったものが大仏です。でも、内容そのものは、聖書が語る内容にだいぶん近づいています。最初は、無神論の無霊魂の自分の悟りが全てだったのに、仏は人間を超越した存在なり、格上げされて永遠の存在に意味が変わって行ったのです。

二世紀のインドにマシバゴーシャという仏教詩人が現れます。この人は、最初は仏教に対しては批判的であった。仏教の論客と討論して負けてしまいます。そして、仏教に帰依しまして布教を始めます。そのやり方がそれまでとっていた固い教えではなくて詩とか歌とかお芝居を使って仏教を伝えていきます。その彼の不況によって大乗仏教が大勢の人に信仰されるようになって行ったのです。

彼は、釈迦の伝記を書いた。釈迦滅ご600年経っているのに資料もないのに書いているのです。その内容は福音書の内容がそのまま少し変更を加えて表現されているのです。お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開く前に三つの誘惑を受けて撃退したとか。子供が2枚の銅貨を釈迦に捧げるとかいう話が盛り込まれております。また、釈迦が生まれる前に女預言者によって予言されるとか、処女降誕で釈迦が生まれるとか釈迦の生涯の中で30歳まででブランクになっています。このように福音書の中にある記事が釈迦物語の中にたくさん入っているのです。福音書を底本に釈迦物語を書いたと言って良いでしょう。

つまり、偽りの釈迦伝記です。釈迦は、私に縋ってもダメだよ、私に縋ってもダメだよ、私に祈ってもダメだよ、救いはないが悟りはある。自分の悟りです。と言っていたにもかかわらず、釈迦伝記ではいつの間にか釈迦は救い主に入れ替わっているのです。お釈迦様が祈ったら答えてくれる。唱えたら答えてくれる存在になりました。いつの間にか救い主に変身しているのです。なぜ、そんなことが起こったんでしょう。

聖書の影響です。大乗仏教は、仏教の中に福音書の内容をどんどん取り入れて生き延びてきた新たなる仏教です。変質した仏教です。空海が唐に行って学んだ仏教は原始仏教ではなくて、大乗仏教だったのです。

空海は聖書の影響を受けて作られた大乗仏教を学んで、まずそこで聖書の影響を受けます。空海は讃岐出身で三男坊でした。31歳で遣唐使として中国の長安にいきます。

この当時、唐で最も盛んだった宗教というのは、景教です。そして、その景教で最も大きい教会が長安にある大秦寺でした。大秦という言葉の意味は、ローマ帝国を表します。ローマことを意味しました。

当時の長安は、キリスト教だけではなくて、ゾロアスター教、ユダヤ教、バラモン教などいろいろな宗教がありました。その中で最も大きな教会堂が大秦寺でした。ローマからシルクロードを通って長安まできました。それは、ローマの教え、大秦寺なのです。

空海が長安に着いたのは紀元804年でした。その169年前紀元635年に景教の宣教師オロペンという人が21人のクリスチャンたちを引き連れて唐の太宗(たいそう)という皇帝に謁見します。この太宗という皇帝は、開明的な方でありまして名君と呼ばれていました。真に良いものであったならば外国のものでも受け入れていくという考えの持ち主でした。

オロペンは直接太宗皇帝に伝道します。この世を創った天の帝がおられる。皇帝よ!あなたはこの世界の皇帝ですが、天には天帝がおられる。この天の帝は人間を愛し、人間をお造りになり、人間を救うために救い主となってこの地上に来られました。人間の罪の身代わりに十字架上で死んでくださり、神なので三日目に蘇られたのです。そして、私たちを天にあるご自分の宮殿に永遠に迎えてくださる方なのです。という単純な福音を宣べ伝えた結果。皇帝は非常に心震えました。

そして、これほどの真理は儒教の中にも仏教の中にもないと言いまして、皇帝自らが景教を信じるので唐の国民よ朕に学べ、朕に倣えということで景教のクリスチャンに聖書を唐の人たちがわかるように聖書翻訳をやってくださいとお願いしました。3年後の638年には全国民にみことのりを発布します。

この真理は計り知れず、その清さは極め難い、故に多くの民衆にこれを伝え、たみを罪から救いなさい。ということで、唐の10の州全てに宣教師が派遣されまして、10の全ての州に大きな教会堂が作られました。小さな町町や村村にも教会ができるようになりました。

その様子を詳しく書いた碑文があります。140年後に石に文字を刻みつけて碑文ができます。この碑文のことを大秦景教中国碑と言います。長いので景教碑と通常いいます。

この景教碑が立ってから23年後に空海が長安に行きます。この碑文と空海の居住地は目と鼻の先であった。そして、大秦寺がありました。

キリスト教会に空海が通ったという記録はありません。大乗仏教の経典は、サンスクリット語で書かれていました。それで空海はサンスクリット語を教えてくれる人を探しました。

教えてくれた人は、般若三蔵という人でした。この人はカシミール出身者であった。この般若三蔵に伝道していたのが景浄という人でした。そして、ついに般若三蔵は景教に心酔します。

この般若三蔵と空海はサンスクリット語の学びで色々と語り合い、話し合い、永遠の世界の議論を交わすようになります。そして、誰が人類の救済者なのかを論じ始めた時に、空海は仏陀だというのです。般若三蔵はナザレのイエスだと言います。

結局空海は、景教徒にはなりませんでした。しかしながら、議論を通じて景教の情報をたくさん得たのです。そして、彼が景教から得た情報を真言密教の中に散りばめていきます。

真言密教というのは、ゾロアスター教やバラモン教やいろいろな宗教を取り入れて作られた混合宗教の仏教です。空海は、亡くなろうとしている時に、弟子たちに対してそう悲観するなと言って慰めます。私は、弥勒菩薩のそばに侍るために死ぬのだと言います。56億7000万年後に弥勒と共に再び地上に現れると言います。56億7000万年後に登場する未来の菩薩が弥勒菩薩です。その弥勒が人類が救い主として来る時に自分は復活すると言っているのです。

聖書の終末論そのものである。聖書の終末論が空海が死に打ち勝つために取り入れられている。どうしても、取り入れなければならなかったのです。空海の間違いは、他のイスラム教や異端の宗教と同じ間違いを犯したことです。聖書の言葉にいろいろなことをくっつけて自分なりの個性を出してこれが最高だと思ったでしょうが、それは過ぎたることなのです。

それで問いたい、真言密教は仏教でしょうか。

空海の師匠は恵果と言います。空海が、真言宗の信徒になるとき灌頂(かんじょう)を授けられます。灌頂は水を頭の上に3回かけることです。これは仏教的な意味はない。これは、景教でバプテスマを受ける方式と一緒。滴礼である。

儀式の前に横三つたてひとつきる。これは、景教の十字架の印である。1週間が7日というのも空海が持ち帰った教え、空海の教えで、わたしたちの心をとらえるものは、そのルーツは聖書なのです。仏教の教えで感動するものは、釈迦の教えではなくてそれは聖書の福音からきていると言えます。空海が景教をきく200年前に日本に景教の教えは伝わっている。

実は、聖徳太子のブレーの中に景教徒がいたとわかっているのです。昔、流行った若者の無気力、六無主義など涅槃の境地に通じるものです。しかし、これらは社会を作ることができません。むしろ、人生を破壊すると思われていました。

救済者が人間には必要なのである。無神論からの釈迦の出発は、結局真理に至ることはなかったのである。神は本当におられる。その救い主がいないという涅槃の境地は最大の不幸の状態をもたらすのかもしれない。

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